鷲尾レポート

  • 2023.01.10

戦後生まれの団塊世代の、孫に伝える、体験的・近現代日米政治経済史 ~失われた30年解説試論~

筆者は嘗て、「米国社会で起った事は、20年後、日本社会でも必ず起る」と主張したことがある。その理由は次の3点であった。

第1は、米日両国経済発展のタイムラグ。第二次大戦で、欧州とアジアが灰燼に帰す中、自国が戦場にならなかった米国は、銃後の経済の立場を満喫した。前戦への武器供給のため、軍事産業は活況を呈し、生産従事者に支払われた所得は、国内に十二分な消費財が無く、ペント・アップ需要化した。そうした状況で迎えた戦後、米国企業は世界に競争相手がいない一人勝ちの状態にあり、国内では所得を手にした中産階級が勃興し、そのマーケットを見据えて消費財産業が一気に伸びた。マイホームを持つというアメリカンドリームが花開き、郊外の新築の家には、電化製品があふれかえった。米国社会は、異質な層の集合体だったが、強い経済力を背景に、農民・都市労働者・中小企業家・大企業経営者など、あらゆる層の人たちが、自由貿易を信奉するようになっていた。そんな米国経済のピークは、戦後20年経った1960年代半ばにやってくる。ケネディー大統領の「国が自分たちに何をしてくれるかより、自分たちが国に何を貢献できるか」を問うべきだとの演説は、こんな社会風土から生まれてきた。それは亦、リベラル全盛の時代でもあった。

その頃、太平洋を挟んだ日本では、戦後の荒廃から漸く立ち上がり、自由主義陣営の国々に開放された米国市場への輸出増大を梃子に、輸出と投資の二本立てによる工業化路線を本格始動させ始めていた。1964年の東京オリンピックは、そんな日本の高成長のスタートを象徴するものとなった。この間、米国に遅れること20年だった。

第2は、ピークが来れば必ず波動は反転するという事実だ。1960年代央以降、戦後からの復興を遂げ始めた日本や西ドイツなどとの競争が激化、米国経済の成長は減速し始め、貿易収支が次第に赤字化するようになる。国際政治面でも、民主党政権下で深入りしたベトナム戦争が泥沼化し、国内社会は分断の様相を呈し始める。経済効率は低下し、社会秩序も乱れ始める。そんな中、70年代に入ると、共和党ニクソン大統領が登場する。スローガンの一つが「法と秩序の信奉」だった。だが、経済減速の波は止まらず、ニクソン時代には、金とドルとの交換停止と、それに続くドルの大幅切り下げが発生する。国内社会の閉塞感を解き放すため、米ソ緊張緩和や中国の国家承認などへの道も開かれた。しかし、そんなニクソンの独走的・強権的な姿勢は、ウオーターゲート事件というスキャンダルを産み出し、1976年大統領選挙で、ワシントン・アウトサイダーを標榜する、民主党カーター大統領の選出に繋がる。カーターは大統領就任演説で次のように述べた。「米国のような偉大な国でも、出来ることには限りがある・・・」。

米国経済の低迷は、20年後の1980年代央まで続いた。1980年大統領選挙で、民主党現職のカーターを破った共和党のレーガンは、大統領就任直前、次のような主張をWSJ紙に投稿した。「米国経済を慢性的に駄目にした原因、それは恣意的な財政・金融政策と蜘蛛の巣の如く張り巡らされた政府規制だ・・・自分は大統領として、この方向を変えてみせる・・・統治する者が、統治される者よりも賢いなどと、誰が決めたのか・・・。政府は問題解決の手段などではなく、むしろ問題の種なのだ」。そのレーガンは、大統領就任演説で、「米国のような偉大な国では、意志があれば必ず目的は果たされる」旨の演説を行なった。20数年後、リーマンショック直後の大統領選挙で、民主党のオバマ大統領候補が唱え続けた“Yes We Can”と同趣旨の、国民を鼓舞するスローガンだった。

一方、米国が、歳出削減・減税・規制緩和・誰にでも予測可能な金融政策という、いわゆるレーガノミクスの発動で、皮肉にも、戦後最大の不況に見舞われた1980年初頭、太平洋を挟んだ日本では、速度こそ減速したものの、依然続いた高成長下、製造業投資は活況だった。不況下、急減した国内需要にマッチするまで、米国企業が生産能力を大幅に削減する中、日本の製造業は生産能力を倍加させていたのだ。

かくて、米国経済が1981年に至り、漸く不況を脱出し、国内需要が急回復する中、国内の供給能力に余裕がない、そんな状況が生まれる。その間隙を縫って、日本からの輸出が易々と米国市場を席巻した。結果は、日本の対米貿易黒字の累増であり、日米通商摩擦の激化だった。言い換えると、1980年代央には、米国経済の競争力が低下する中、日本経済のピークがやってきていたのだ。この時点で、日米経済が攻守を替えてから、やはり20年が経っていた。米国の世論調査などで、「ソ連の軍事力と、日本の経済力、どちらが脅威か」との質問に、「日本の経済力」との答えが多くなった時代だった。

第3の理由は、競技は何時までも、同じ土俵で争われるもの、との思い込みだった。だから2000年央、米国が自国発の金融・経済危機(リーマン・ショック)で危機に陥ったとき、筆者は、それが起点になって日本が再び台頭する、と考えてしまったのだ。

しかし、1980年代央から2000年央に、実際に起っていたのは、全く違う事態だった。レーガン政権の新経済政策とプラザ合意(いずれも1985年)で、対米輸出への歯止めをかけられ、亦、円の大幅切り上げを余技なくされた日本は、国内経済支援のために財政を大幅に拡大させた。しかし、この措置は、円価の上昇等によって大量に流入した外資とも相俟って、結果、国内に過剰流動性を発生させ、且つ、その過剰化した流動性の不胎化にも失敗、遂には、バブルを惹起してしまう。そして、そのバブル対策の末、今度は経済を冷やし過ぎ、その後はご承知の失われた10年、次いで20年、そして今や30年と言われる、一人当たり実質GDP成長ほぼゼロの時代が続くようになる。

この間、米国、延いては先進諸国の経済は、製造業から金融・サービスの時代へと様変わりしていた。つまり、80年代には、製造業分野だけで勝負が決まっていたのが、2000年央には、金融サービス分野での勝敗が第一の決め手となっていたのだ。更に、日本経済自体も、プラザ合意以降、金融・製造両分野共に、米国経済との一体化の度合いを増し、且つ、製造業も市場近接地での生産という名目で海外生産比率を高め続けていた。

そんな中での、米国発の金融・経済ショックの発生だった。言い換えると、1980年代央に底を打った米国経済は、やはり20年後の2008年前後に、ピークから下降への転換を迎えたのだが、筆者説の、「今度も亦、この機に、日本経済が上昇に転じうる」、そんなシナリオは実現しなかった。繰り返せば、グローバル化の流れの中、日米両国経済の好不調が同一循環サイクルで動くようになってしまっていたからだ。

今回、1980年代の日本と同じような立ち位置にいたのは、中国だった。中国は国内に巨大な市場を有し、一方、金融部門のグローバル化は遅れていた。だから、外からの金融ショックには耐性を保持していたし、実際に米国発の金融・経済危機が発生したとき、製造業にとって大切な国内市場を、国外経済から遮断する一方、国内向けに財政の大幅支出を行ない、経済が不況に突入する危機を回避できた。

結果、中国経済の高成長は続き、数年後には、近い将来、経済規模での米中逆転すら語られるようになっていく。別の観点から言えば、嘗ての世界第2位の製造大国日本は、もうそこには存在していなかった。直近の米中対立の激化は、この時の経済の、下りと上りのすれ違いから端を発している。

だが、上り坂の20年、下り坂の20年、計40年を一つのサイクルと見做すと、米国が下り坂だった40年前に、その社会に起った諸々の変化は、成長を経験せず、80年代央以降、むなしく40年を徒過した現在の日本にも、同じように見られるようになった。犯罪が多発し、サービスの質が低下している。Meイズムが社会に蔓延する一方、国の社会福祉制度に依存する貧困層が激増している。必然的に惹起される産業構造転換に付随して、製造業雇用は縮小し、離職した労働者が新たに見つける第3次産業分野での賃金は、以前もらっていたそれよりは、低くなってしまう。

そんな時代、今日よりも明日、自分たちの生活を良くしようとすれば、家計の財布を一つから二つに増やさざるをえない。1980年代央の米国も、2020年代央の日本も、そんな意味で、共働きが常態化した時代となっている。しかし、共働き、延いては女性の社会進出となると、40年の違いを超えて、両国に同じ問題、例えば、会社組織内でのガラスの天井、少子化、子育て問題、離婚の激増、シングルマザーの貧困化等を産み出してしまう。更に、政府が取るポピュリスト的社会政策で、財政は恒常的に赤字化、一方、大企業は節税に励み、歳入に占める法人税の比率は低下し続ける。あの時の米国は、財政赤字に加え、貿易収支も赤字だった。そして直近の日本も、財政収支は大幅な赤字。これまでは心配なかった貿易収支8も、ウクライナ情勢などの影響で、赤字化の傾向が顕著となっている。

そんな40年前の、双子の赤字に苦しむ、ボトム期の米国経済・社会で起ったのがレーガン革命だった。” Government is not a solution, but a Problem” 。レーガンは、このスローガンを用いて、有権者に「大きな政府か、小さな政府か」の選択を強いた。議会も当時、財政負担を伴う新制度を作る際は、古い制度を改廃するなりして、財源を節約すべしとの趣旨の、Revenue Neutral方針を予算決議に盛り込むなどして、無制限の財政支出を抑制する姿勢を採った。

思考は徹底して突き詰め、且つ、実践してこそ本物である。嘗て、1980年代前半、不況の最中、議会野党だった民主党のエドワード・ケネディー上院議員などが、日本の産業政策を米国でも採り入れようと提案したが、レーガン政権は「勝者と敗者を選別するのは政府の役割ではない」と一蹴した。あの時、筆者はニューヨークで、米国の政治・経済をウオッチしていたが、そんな共和党政権の姿勢には心底驚いた。事実、レーガン政権は、安全保障分野を除き、不振に悩む米国経済を救済するため、殆ど何の手も打たなかったのだから・・・。しかし、あの時の放任こそが、後々、マイクロソフトやサンマイクロシステムズ等のIT大手企業やバイオ企業を産み出し、米国の産業構造を製造業から金融・サービスを中心とするものに一変させ、以て、経済を再生させたのだった。

1980年代央をピークに坂を下り始めた日本経済。その下り坂の局面では、指導者が頻繁に交代したのは当然だろう。事実、1987年に終わった第3次中曽根内閣以降、政権は2年ごとに変っている(89年の宇野総理、94年の羽田総理の期間1年という例を除いて)。

日本経済のボトムが2000年代央にきて、そこから先は再び坂を上る。そんな筆者の理屈が実現するためには、あのタイミングで、経済の枠組みを抜本的に替える政治指導者が出てこなければならなかった。その素地は、確かにあったのだ、と思っている。

2001~2006年に「自民党をぶっ壊す」と叫んでいた小泉政権、更には、その後の2006~2007年にかけての第一次安倍政権、或は、2012~2020年の第二次安倍政権が選挙ポスター紙上で、「日本を取り戻す」と叫んでいたのだから・・・。だが、期待は実現しなかった。

第二次安倍政権が打ち出したアベノミクス(恐らくはレーガノミクスからの造語だろう)は、「デフレ脱却と富の拡大」という、はっきりした目標と、「3本の矢:異次元の金融政策→機動的な財政政策→成長戦略」という、はっきりとした道標を持っていた。しかし、3本の矢は連動しなかった。否、させることに失敗した。

元々、誰もが、最初の矢である、マイナス金利政策には違和感を持ったはずだ。なによりも金融・サービスのウエイトを高めていた日本経済にあって、金利が機能することは、経済活動の胆のはず・・・。亦、個々人が一生懸命に励んで、自分自身の付加価値を増し、以て社会に貢献する、それが、日本の健全な保守社会の背骨価値である、と信じられていたはず・・・。

それが、時間が経つと元本が減る。そんな価値変質に繋がる政策を、国際金融の手段論に牽引されて、社会への影響に関して何ら十分な議論もせず、易々と保守層が受け入れた。その事実は、結局、筆者に、日本の政治には徹底した議論がなく、更に、極言すれば、政治層の中に、社会の価値を論じる真の保守派はいないのだ、と思い知らしめた。

あのマイナス金利政策が導入されたとき、本来なら、保守層から、そんな政策を採った場合の、金融経済への影響や、社会全体の価値観への影響を案ずる声が出て、もっと真摯な議論が巻き起こってしかるべきだった。そして、そんな議論を経ての、あくまでも短期の緊急策だとの共通認識の下、あの異次元の金融緩和政策が導入されたのであれば、一定期間経過後の、政策切り上げへの圧力も強くなっていただろうし、替わって、第二の矢への移行や、第三の矢のもっと真摯な施行も果敢に行なわれていただろう。

しかし、現実は、そんな事前の議論の欠如故、本来短期のカンフル注射政策を、8年以上にわたって続けさせてしまう羽目になる。そして、反面、そんな現実の下、実際に政治が指向したのは、毎年の如く目新しいスローガンを掲げ、有権者の関心を当初のそれからシフトさせ続けるやり方だった。ポピュリズムがいつの間にか、抜本的対処策を乗っ取ってしまったという他、表現が思い浮かばない。

そうした批判的目で見れば、2021年夏の衆議院選挙は、野党にとっては千載一遇のチャンスだった。米国では4年ごとの大統領選挙に際し、野党候補は必ず有権者に「貴方の生活は4年前と比べて楽になりましたか」、或は「貴方のお子さんの将来は、貴方が子供の頃の将来展望と比べて、良くなっていますか、或は、悪くなっていますか」と問うのが当たり前。だから当然、日本でも、野党は同様の質問、「貴方の生活は、8年前と比べて楽になりましたか、或は、苦しくなりましたか」と有権者に質すものだと思っていた。政策目標だったデフレからの脱却は実現せず、所得は増えず、一人当たり所得では周辺アジアの国々に次々と抜かれ続け、財政赤字は拡大し、その負担は孫子の代まで続いて行く可能性が高まっている云々。だが、野党共闘を実現させながら、野党はついぞ、そんな質問を有権者に突きつけなかった。問うたのは、与党と比較しての、野党としてのばらまき政策だった。筆者は、「日本には、結局、米国のような選挙ストラトジストもいないのだ」との感想を抱いたことを覚えている。あの時の選挙の、事後の日本経済新聞の投票分析によると、嘗て経済繁栄を体験している高齢者ほど自民党に批判的、生まれてこの方、成長の果実に浴したことのない若者ほど、野党に批判的という結果だったという。

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