ウクライナ軍のロシア国内への越境攻撃を巡って~大きな賭:起死回生となるか、大失敗に終わるか~
8月6日早朝、ウクライナ軍はロシア南西部のクルスク州への本格的な越境反撃を開始した。米国への事前連絡はなかった模様(但し、ウクライナがこの種の越境攻撃を欲していること自体は、米軍関係者の間ではかなり前から知られており、その意味で、今回の奇襲攻撃の実行に、米軍側に驚きはない)。
この越境反撃は、米国の軍事専門家によると、少なくとも4個旅団の軍隊を巻き込んだ規模(後方からの砲撃支援や航空支援などを含む)で、実際に越境した兵力は、ロシア軍発表で1000名、米軍推計で数千名だったという。
ウクライナ軍自体の軍事作戦としては、ロシアがクリミア半島を占拠してから10年後、直近のロシアの本格的なウクライナ侵攻から2年半後の、或る意味、ウクライナ国民にとっては待ちに待った、ロシア国内への初の侵攻となった(それ以前にも、ウクライナ軍に支援された、ロシア人義勇兵による小規模な侵入が2度あったが、いずれも失敗)。
攻撃対象となったスジャは付近住民5000人の町、モスクワから数百マイル南西にあり、ロシアがウクライナ経由で欧州に天然ガスを輸出するパイプラインの中継地。今回越境した地点から6マイルの距離にあるというが、ウクライナ軍はそこを中心に、残存ロシア兵数百名を捕虜としながら、ロシア国内の約400平方マイルを制圧したのだ。
奇襲攻撃は、厳格な情報統制の下で行なわれた。侵攻1週間後に現地を訪問したNYT記者の報告によると、ロシア国境の森の中で、この侵攻計画が実戦指揮官達に知らされたのは侵攻3日前、兵士達への通知は僅か1日前だったという。
こうした情報の厳格統制の裏には、昨年、ウクライナ南部の奪還を目指して行なった、ウクライナ軍の軍事作戦の失敗があった。あの時は、政府中枢からの進軍指令が、数ヶ月前に前線に電信で送られたが、それが盗聴され、ロシアは事前に十二分な対応準備を取っていたとのこと。その轍を今回は踏まないと、軍幹部が決心していたというのだ。
NYTの記事(2024年 8月12日)によると、ウクライナ軍は今回、「政治指導部には攻撃が成功してから知らせる」という方針を採った由。
そして事実、ゼレンスキー大統領が、国民向けにウクライナ軍のロシア領占拠を公表したのが8月10日。実際の越境から4日以上も経過した後のこと(しかも、その時のゼレンスキーの国民向け報告には、占有地の固有名詞がなく、ゼレンスキーがクルスク州の名前を初めて使用したのが、その2日後の、8月12日になってからだった)。
恐らく、大統領が実際の越境を知らされたのは軍の侵入の直後、それが成功し、占有地域の維持が確実になるかどうかまで、公表を控えていたのだと推測されるが、この間の経緯を探って行くと、今回の侵攻が軍主導で、そうした状況下での、ゼレンスキーとウクライナ軍シルスキー総司令官との間の微妙な関係が浮かび上がってきそうな気がしてならない。何しろ、シルスキーの前任、サルザニー総司令官を本年2月に解任し、駐英大使に転出させたのがゼレンスキーだったのだから…。
ウクライナの今回のロシア侵攻には、恐らくは4つの直接的目的がある。
一つは、ウクライナ東部を攻撃中のロシア軍の兵力を削ぎ、ロシア南西部の救援に向けさせることで、ウクライナ東部戦線への負担を軽減すること。二つは、恐らくは米国大統領選挙の帰趨がはっきりした後に、輪郭が見え始めるはずの、ウクライナ戦争の停戦交渉に向けた動きを先取りして、そうした際に交渉材料となるような実態(ロシア領内の占拠)の創出。三つは、ウクライナ国内の士気の盛り上げ。そして四つは、NATO諸国からの供与武器を使って。ロシア国内を攻撃したとの実績作り。
何事にも、物事には前段がある。
今にして思うと、今回のウクライナ軍のロシア侵攻にも、それを可能にした前兆が幾つか認められる。そうした前兆の第一は、2ヶ月程前の、5月29日のブリケン国務長官の発言である。曰く、「ウクライナが、(米国供与の武器を使って)、如何に効果的に自国を防衛するかは、ウクライナ自ら決定しなければならない」…。
ブリケン国務長官が、そう述べた背景は以下のようなものだった。
バイデン大統領は、米国がウクライナに供与するミサイルや戦車等の武器類について、決してロシア国内を直接のターゲットにしてはならない、との厳密な禁止条項を付していた。万が一、そんなことを許せば、米ロとの間に第3次世界大戦が始まる。故に、この一項だけは、断じて認められないと…。
処が、ロシアのウクライナ攻撃がヒートアップし、ロシアが国内からミサイル等をウクライナ国内に頻繁に発射するようになると、ウクライナのゼレンスキー大統領は、そうしたロシアのウクライナ攻撃(ロシア国内からの)に反撃できなければ、ウクライナ国内でのロシアからの領土奪還は不可能だ、との主張を繰り広げ始める。
このウクライナ大統領の主張に、NATOの一角である英国が先ず同意、更にドイツやフランス等が同調するに至り、自国供与の支援武器をウクライナがロシア国内向けに使っても容認する姿勢が、NATO内で一気に拡がった。こうした雰囲気を受け、米国のホワイトハウス内でも、容認論が次第に広がり、米国の政治サイト・ポリティコによると、6月30日にはバイデン大統領自身が、「ウクライナのハリコフ州周辺を攻撃するロシア軍の兵站基地なら、ロシア国内であっても、米国製武器を使って攻撃してもやむを得ない」とのゴー・サインを出したそうな…
NYTによれば、それでも猶米国は、米国製武器を使っての反撃は、正当防衛の範囲に留めるべきだと主張(acts of self-defense to cross-border threats)し、それ以外のロシア国内深層部への米国製ミサイル等を使っての攻撃は認めていない。
そうした米国の態度軟化を承知の上で、ウクライナは今回、ロシア侵攻に際してのウクライナ国内からの先制攻撃には、米国製の戦闘機などを使用したが、侵攻した後のロシア国内から更にその先の同国深層部への追加攻撃には、出来るだけ自国産の武器で済ませようとの配慮を働かせている。
具体的には、侵攻ウクライナ軍はスジャの攻撃・占有を行なった際、同時に、ロシア国内の更に深層部所在の4つの飛行場を、117機のドローンを使って攻撃した(その目標の2つに打撃を与えた)が、使われたドローンはいずれもウクライナ製で、米国から供与された武器ではなかった由(米国は、今回のウクライナのロシア国内攻撃では、米国の武器供与に関する禁止条項は遵守されているとの立場を表明)。
しかし、そうした双方の配慮も、今後、ロシア国内での戦闘が激化してしまえば、早晩、守り切れなくなることぐらい、小さな子供でも分かること。今後は、そんな配慮や弥縫策は次第に遵守できなくなって行くだろう。
今回のウクライナ軍のロシア侵攻に関しての真の問題は、この作戦が本当に不可欠だったのか、という点にある。
ウクライナは、国内での対ロ抵抗に全力を挙げなければならない。その重要な時期に、唯でさえ足りない兵力の中から精鋭を引っこ抜いて、異なった戦線創出に走ったわけだが、米軍の幹部の中からは、「そうせざるを得なかった事情は分かるが、それが本当に懸命なやり方なのか、それだけのリスクを負う価値があるのかどうか…」、疑問視する声が投げかけられている」(”US Military analysts have questioned whether the Assault is worth the risk, given that Ukrainian forces are already stretched on the front lines of their own country”、”one senior US official called the operation a big gamble”、“NYT2024年8月14日、15日等々)
そして事実、この懸念が現実のものになろうとしている。
直近のNYT(8月16日)ば、ウクライナ国内ドネスク地方の要路ポプロフスク(付近住民の規模は6万人)を陥落させるため、同地に侵攻しているロシア軍が遅々としたスピードだが、確実に西進していると報じている。
それが事実だとすると、ウクライナ軍が目論んだ、別働隊がロシア国内に侵攻したことで、ドネスク地方に展開しているロシア軍が、ロシア領土保全のため、反転南下するだろうとの読みは、全く外れた、と言うことになるのではないか…。
上記NYTによれば、ポフロフスクは今や陥落寸前。軍は住民達に寸暇を惜しんで退去するよう、迫り始めているとのこと。
ウクライナ軍の兵力は底をついており、ポブロフスクへの兵力補強は殆ど不可能。
もしウクライナ軍がポブロフスクを喪えば、ドネスク地域全体の統制能力をも失ってしまうと伝えられる。
一方、ウクライナが新規に開いたロシア国内クルスク州での戦線も、ロシア側の抵抗が強くなってきており、事前の想定通りには行っていない模様(現状、進行スピードも遅れ気味で、漸く国境から8ナイルほど進んだとのこと)。同時に直近、侵攻の前線からは、兵力や弾丸の不足を嘆く声が漏れ始めているという。
クルスク州は森や沼地が多く、既存の舗装道路以外に戦車や軍用車が通れそうな道は少ない。逆に言えば、ロシアが圧倒的な航空戦力で、ウクライナ軍の退路を断てば、侵入軍は攻囲されたと同じような事態に、容易に陥りかねない。そうなってしまえば、侵攻した自軍を、ウクライナ軍当局は、どうして救援するつもりなのか…。
筆者のような軍略素人の眼から見ると、ウクライナ軍は今や、唯でさえ少ない兵力を、二つに分けてしまっており、その結果、ロシアが既存のウクライナ領内の戦線で手を緩める気配を見せていないため、ウクライナは二つの戦線で、同時に劣勢に立たされてしまったように見えて仕方がない。
***中国の孫子虚実編に以下のような言葉を見つけた。
「攻めて必ず取るは、その守らざるを攻めればなり…我戦わんと欲すれば…敵、我と戦わざるを得ざるに至るは、その必ず救うところを攻めればなり」。
***前段は、ウクライナ軍のスジャ攻撃を、後段はロシア軍のポブロフスク攻撃を示している。しかし、この二つの可能性が同時に発生したら…。そんな時、孫子の用問編は、敵の情を知ることの重要性を強調する。
「明君賢将の…衆より出ずる所以は、先知なり…」。この行を、作家山本七平は次のように解説する。「有名なスパイ・ゾルゲにソビエト政府が、いくらの報奨金を出したかは知らないが、当時の関東軍が南進するか、北上するか、その動向に関して的確な情報を得たことは、ソビエトにとって、何十個師団かに匹敵する戦力を買うことが出来たと同じ…。
この山本七平の言葉を、現下のウクライナに適用すると、ウクライナ軍がロシア国内に侵攻した場合、ハリコフ在陣のロシア軍が南下するか、その地に留まるか、ロシア軍首脳がどう考えるか、その先知情報を得ていたかどうかが全てだ、ということになるだろう…。
この点、ウクライナの情報網が、ロシア軍首脳、或はもっと端的には、プーチンの思考と結びついていなかったことが、今回の判断の根底にあったとのではないだろうか…。ウクライナの作戦が、「ロシア領に侵攻すれば、ロシア軍は何をおいても、国内重視で南下すると踏んでいた」、そんな認識を前提に進められていたように思えるのだから…。だが、最高指導者プーチンはそうは考えなかった…。
そんな現状から観ると、前記、米国のブリケン国務長官の発言、「ウクライナが如何に効果的に自国を防衛するかは、ウクライナ自身が決定しなければならない」は、極めて意味深な言葉ではないか…。改めて、関係責任者の口から出る言葉の、深遠さを思い知らされる。
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